昭和五十年九月二十三日 朝の御理解御理解第五十八節 人が盗人じゃというても腹をたててはならぬ。盗人をしておらねばよし、乞食じゃとゆうても貰いにいかねば乞食ではなし。神がよく見ておる、
しっかり信心の帯をせよ。よく天地神明に誓ってとか、または神様がみてござる、神様が知ってござるからと言う様に申しますが、ただ知ってござるというておるだけではいけない。信心のない者でも、そう言うごたることは言います。ちゃんと世間様が知ってござるけん、ええ。こういういい方をしますけんね。知ってござるだけではいけん、しっかり信心の帯をせよというところがなされなければいけないのです。しっかり信心の帯をする。それは神様を信ずるからいはば腹を立てんですむ、またはそれによって自分が豊かに大きうならせて頂くから、腹を立てんで済む。これは小さい子供が大人に向かって悪口を言うても腹がたたん様なものであると、こちらがその都度に大きうならええ、言うなら特に信心のない者が、信心のある者をとやこう言う、もうそれは大人と子供のようなものだから、腹のたたんのがあたりまえ、という位にならなければいけないけれどもやはり腹が立つ。そこに自分の信心の本当のものでないことを悟らして貰はなければいけません。大きくなる、豊かになると言うことで、信心の帯がしっかりする。または本当に自分の信心が、----信心はあるけれども、人からも例えばいはれるんだと、それで一段とそこをひきしめてくる、という亊によってその両面が出来て来る様になる。いうならば信心が「ずんだれ」とる。もう本当にこの信心がずんだれとる程、あのまあやりにくいと言うこと、歩きにくいと言うことはありません。帯をいつもころころ上げていかねばなりません。ほりあげ、ほりあげするような、いっぺんピチットこう、帯をしなおすというのである。いうならば信心生活が出来ないということです、ずんだれておっては。同時にまたそれによって、私共が一段と豊かに大きくなる。例えば緩い帯でも、こちらの腹が大きくなればきちっと締まるようなものです。それも神様が見てござると言うことを信じるから、聞いてござるという亊を信じるから、それもできるんだという腹の大きさにならなければいけません。昨日生きるか死ぬかというお届けがあった。そのことをお届けさしてもらったら彼岸花をいっぱい頂いた。言うならおかげをもう彼岸の彼方という、もうすぐそこにあるんだということです。医者はもう駄目だといわれていたと言うそのことを、お礼申さして頂いておりましたところが、あの領収証の収という字、収入の収という字、を頂いた。
どういうことだろうかとおもった。収入が増えるという亊なんです。いうならば信者が増えるということです。言うならお供えが多くなるということです。如何にもソロバン高いごたるけど合楽の神様は大体そんな感じです。甘木の初代なんかの---いろんな、甘木の先生は、甘木関係は生神様の様にいわれなさったけれども、関係外からは、もう本当にいはば悪口をいわれなさった方です。そういうたんびにお腹を大きく豊かにそんなことは問題になさらなかった。そしてむしろしれっと笑ひよんなさったろうとおもいます。これはまた一人子供ができると思うて、だから甘木の先生のお腹の大きいのは、もういつも妊娠中といった感じだから弟子を生み出す亊に於ては、日本一と当時いわれなさる位であった。人が悪口を言はれなさる、ああ又一人弟子が出来るな、いわば子供が宿った様に喜んでおられた、ね。桂先生は、ああいう豪快なお方であった。もうそれこそ太っ腹であったらしい。私共は存じ上げませんけれど、とにかくわしの言う亊に間違いがあるかと「ポ-ンとお腹を叩いてキッと身構えて」こう自分のお腹を叩いておっしやるような感じのお方であった。言うなればよく清水の次郎長とかね、幡隨院長兵衛とかという義侠に富んだ親分がおりましたがそう言う親分肌の方があった。だから沢山の子分ができたね。随分、たくさんの子供ができた。腹が大きうなりなさる度に良い子ができた。ね、素晴らしいです。--木先生、石橋先生、甘木の安武先生、若松の先生辺りの様なもうそれこそ奇麗な様な、つぎつぎと出来ておいでられた。それは腹が大きうなられる。信心の度胸が据えられるに従って大きうなっておいでられた。久留米の初代は丁度、当時玉錦という横綱がおりました。
まあ--も大変可愛らしい人でしたが、もうそりゃ相撲とりの裸の姿の素晴らしい亊ね。もう本当の相撲とりさん、振りのよい相撲でした。腹の大きなね、言うならば久留米の石橋先生なんかは、そう言う例えばもう実に美しいおかたであった。悪口を言うても悪口を言うた人のことを祈らずにはおられないというようなお方であった。悪口をいうたんびに限りなく美しくなっていかれた。そういう意味でお腹が大きい、わたしの場合には丁度大黒様のような、と神様は言ってくださった。大黒様はお腹が大きいでしょう。大黒様なんというても、商売人の神様と言うでしょうが。言うならば人間の幸のいろんな条件がありますけど財とか物とかに不自由しない大徳を持っておられる方である。私が夕べ頂いた収入の収の字もね、そういう意味だと思う。大変難しいお届けがある。それが助かる。助かるとああほんに合楽の親先生のおかげで助かったというて、言うならお礼のお初穂もガパッとさして貰う、ない命を頂いたんだから、というて皆さん私が収入が多くなってというて喜ぶと言う意味じゃないですよ。合楽の場合にはね、例えば腹の立つ様に、例えば人から悪口を言われる様なときにはです、一つ本気で豊かで大きくなるようになれば、また収入が多くなり、またお客さんが増えるというような頂き方が、させていただける様になったら悪口をいわれてもまた楽しい亊になります。難しい問題に直面して、サア、生きるか死ぬるかに直面して、また収入が増える、また大きなおかげが受けられると思うたら、腹を立てる、いうなら立てるどころかその都度、都度にお腹が大きうなる。都度、都度に信心の帯をひきしめ、ひきしめそこにいうならば反省と精進というのがあるわけです。只、豊かになっていくだけではなくて、やはりそこにはです、昨日、田主丸の共励会で文男先生がおかげをいただいておりました。それで帰ってからそこで一時間ばかり二人で暫く話した亊ですけど、今日は青年会の、先日から青年会の一夜信心実習があったときに先生のお話が話題になりました。けど余りに難しゅうしてわからんと、ところが質疑応答の時には誰も質問する者がなかった。実をいうと一時間ばかりお話しいただいたことが大変高度な難しい話であったけれども、非常にやさしい言葉を使ってしかももう噛み砕く様に説明がしてあるのですから、そのときには解かったごたる気分がしよる。どうゆうことを説いたかと言うと信心の道とか真の道とか天地に繋がる道とかというそう言う道が自と開けてゆく、ああこういう生き方をすれば、天地に繋がる道、交流する様な道が開けて来るんだと確信出来る様な信心をせよ、と。
それにはまずお繰り合わせを頂け、まずはお気付けを頂ける信心をさしてもらえ、というお話だったけれども、お繰り合わせがどういうことやら、またはお気付けがどういう亊やらは、自分たちの、僕達の実感としては解からない、話をきけば解かったというのです。例えばお繰り合わせというのは、例えば先日から総会があった。もう間違いなしにテレビでは明日はおしめりだと言うておった。ところがその日は天気のおかげを頂いた。
その翌日から、二日間降り続いた。言うなら天地のこと、天気の降る、照るのことまで繰り合わせて下さる。これがお繰り合わせと言うのだと。これは天地のことだけではない。ああ、今日は金がないがどうしょうかと、いつもお繰り合わせを願っとくと、思いがけない所から集金があったり、入金があったりして、お繰り合わせを頂く、頂き続ける信心。そこで人間と言うものは、所謂生身を持っとるから、調子づく。これが本当の亊と思うとる。その本当の亊と思うておる亊が、間違うた亊を思うとるからお気付けを頂く。お気付けを頂くから、ああ、これは自分の○○の方が間違えておったと言うて。また正道の道に入って、だからこう言う道を進んで行くのだから、真の道、天地に繋がる道、おかげの交流する道を間違える亊がない。ためにはやはり、お気付け頂けんごたる、そういうことは人間が完璧でないのですから、出来るはずがない。間違いがない。これが本当だと確信しとってもです。その確信がくずれるような亊になってもその前に、神様はお気付けを下さる。だからそのお繰り合わせをいただき、お気付けを頂き、そのお繰り合わせとお気付けの中に、天地に繋がるような道が開けるんだと。そしてそれをあらゆる例をとって、お気付けの例又は、お繰り合わせの例を話ておるから、質疑応答の時に質問する亊がないのです。されまいと私も思うたです。こかしこ噛んで含める様に○んなら、質疑応答の質問がされんだろうと思うた。ところが事実はです、青年会の人達としてみてはです。そのお繰り合わせというのを頂いた亊はないけれども、日々のお繰り合わせをお繰り合わせと気付いていなかったら頂けなかったとしておると言う亊。又はお気付けは頂きよるけれども、お気付けをお気付けと気がつかんで、返しておる程、まだ目が荒いんだと分かるより外にないねと、言うて話した亊です。夕べ。だから、それが段々に分る様になって来る。これは今、私がここで申しますように、大きゅうなっていく、豊かになって行くことは、お繰り合わせを頂いて大きくなって行くと言う亊。それなら信心の帯を締め直し、締め直しして行く亊はこれは改まって行く亊だと思うです。改まって行くと言う生き方は、そこに人○○例えば悪口を言われても、それこそ泥棒だと言われても、乞食と言われても神様が見てござるけんと言う様な、ただ通り一遍のものではなくて、その都度に子らができてくる、その都度に子供が生まれてくる、その都度に限りなく美しくなっていけれる、その都度に収入がガバッとふえてくる、と言うようなです楽しみ所謂、私を含めて四人先生方の生き方と言うものをです、どれでなからにゃならんということはないけれどもその都度にお腹が大きくなっていくようなおかげを頂いて行くと同時に、自分の信心をその都度その都度引き締め引き締めそこにはお気付けを感じるから引き締めていかれるのである。なら悪口を言われるのも或る意味あいに於てのお気付けなんだ、だからそのお気付けをお気付けとして改まって行く、または限りなく豊かにおおきくなって、神様を愈々信じるからそれができるのです。ですから人がどういうから癇にさわったとか、腹がたったとかいうような時代には本当の神様を信じていない証拠ですから、それを頂いてです、愈々自分の信心を、まあだ本当にそれこそ青年会のかた達じゃないけれどもお気付けもわからない、お繰り合わせもどういうことか分からない、といったような只おねがいをしておかげを頂いたら、しれしれ、おかげを頂かなかったらおかげ頂ききらじゃったと、位ならよいけれどもおかげやりきらじゃったと言う程度の--の方の信心で終始してはつまらん、都度、都度に愈々信心の帯をしっかり締めていく、都度、都度に信心の心を豊かにしてゆく、大きうしていく、それと今日は三人の先生方の信心、それから私の信心を基にして聞いて頂きましたね。どうぞ